しなびかけた小松菜を手に持って、鍋の前でつぶやく。
「まあ、味噌汁だな」
これは献立を考えている顔じゃない。処理を決めている顔だ。僕が台所に立つ日の味噌汁は、料理というより、傷みかけた食材の救済窓口に近い。今日中に使わないとまずいものを、ここに流し込んでいる。
先に正直に書いておくと、これはあくまで「僕が作る日」の話だ。普段の味噌汁は妻が作っていて、そっちはちゃんとした一杯になっている。他のおかずとのバランスも考えて具を選んでいるし、やばい物を片付けるためだけに味噌汁があるわけじゃない。僕が台所に立つのは、妻が忙しいときや、たまたま早く帰れた日、土日の休みくらい。毎日でもないし、順番が決まっているわけでもない。
でも、そのたまの当番の日が、僕にとっては冷蔵庫のやばいやつを片付ける絶好のチャンスになっている。今日はその話を書きたい。
前回まで、このブログでは「入口と出口の両方に網を張るしかなかった」という話を書いてきた。買いすぎ・入りすぎを防ぐ入口の工夫と、入ってきてしまったものを傷む前にさばく出口の工夫。その両輪でしか、食材ロスは減らせなかった、と。
そのとき出口の例として、悪くなりそうな野菜は味噌汁やサラダにこまめに回している、と一行だけ書いた。今日はその一行を、ちゃんと一本にして書いておきたい。というのも、僕にとっての出口の主力は、間違いなくこの味噌汁だからだ。
僕の当番の日は、味噌汁が救済窓口になる
味噌汁のいちばん強いところは、味でも栄養でもないと思っている。何を入れてもだいたい成立する、という懐の深さだ。だしは粉末タイプで、正直そんなに凝ってはいない。それでも、たいていのものを受け止めてくれる。
このブログで何度か書いてきたことがある。「いつ使うか決まっている食材は、ロスしない」。逆に言えば、使うタイミングが決まっていない食材が、冷蔵庫の中でじわじわ傷んでいく。
僕が台所に立つ日は、この問題を片付けるチャンスだ。妻のように献立から具を決めるのではなく、冷蔵庫を開けて「いちばんやばいのは何だ」から始める。今日中に使いたいけどどの料理に入れよう、と悩む必要がない。悩んでいるうちに腐らせる、という格下げの連鎖を、味噌汁の前では止められる。鍋に入れればいいだけだ。
毎日は作れない。でも、たまに開くこの出口があるだけで、冷蔵庫はずいぶん助かっている。
具は「献立」じゃなく「やばい順」で決めている
ここがたぶん、僕の味噌汁が普通と違うところだ。
料理上手な人の味噌汁は、たぶん「今日はなめこと豆腐にしよう」と、食べたいものから決める。妻が作る日もそうで、他のおかずとの兼ね合いで具が決まっていく。でも僕が作る日は逆だ。冷蔵庫を開けて、古い順・やばい順に放り込む。今日の主役は、いちばん傷みかけているやつ。味の設計なんてしていない。
献立を立てないから、むしろ拾える、というのが自分でも面白いところだ。「なめこの味噌汁が食べたい」から始めると、その日なめこがなければ話が終わる。でも「いちばんやばいのは何だ」から始めると、冷蔵庫にある限り、必ず出口が開く。
僕の味噌汁は、献立じゃなくて、やばい順で具を決めている。料理としては邪道かもしれない。でも出口としては、これが正解だった。
意外といける、うちの殿堂入り
やばい順で入れてきて、「これは味噌汁で正解だった」と思った顔ぶれを挙げておく。
きのこ類——エリンギ、しめじ、えのき。これはもう鉄板。うちはきのこがさばけないうちに次のパックが来る、という万年在庫状態なので、味噌汁がなかったらと思うとぞっとする。だしと喧嘩せず、むしろうまみを足してくれる。
葉物——小松菜、豆苗。しなびかけていても、火を通してしまえば気にならない。生のサラダでは出せないやつも、味噌汁なら最後まで拾える。
根菜——大根、さつまいも、かぼちゃ、里芋。これは時間がかかる。火の通りを待つのが面倒な日もある。でも、やっぱり美味しい。特に根菜は味噌汁にすると甘みが出て、持て余していたのが嘘みたいにちゃんとごちそうになる。
根菜については、正直に書いておきたいことがある。うちのかぼちゃと大根は、中途半端に残ったやつがずっと居座っていることが多い。さつまいもや里芋も、油断すると芽が出たり傷んだりする。だから救済といっても、きれいな救済じゃない。芽が出てきたさつまいも、ダメになった里芋を捨てながら、まだ大丈夫なやつをなんとか拾う、という感じだ。全部は救えない。一部を諦めて捨てながら、残りを味噌汁に流し込む。それでも、捨てるだけで終わらせるよりはずっといい。
さすがに、合わなかったやつ
なんでも受け止めてくれる窓口みたいに書いてきたけど、正直に言うと、相性の限界もあった。
舞茸は、香りが強すぎた。他のきのこは味噌汁に馴染むのに、舞茸だけは自己主張が激しくて、汁全体を持っていってしまう。救済のつもりが、その日の味噌汁が舞茸味噌汁になる。嫌いじゃないけど、「やばいから入れる」感覚では扱いづらい。
水菜は、なんだか筋っぽくて美味しくなかった。生のサラダならシャキシャキで良いのに、火を通すと繊維が残る感じがして、これは味噌汁向きじゃないな、と思った。
なんでも受け止めてくれる窓口にも、相性はある。この失敗を書いておかないと、「味噌汁最強」がただのきれいごとになってしまう。舞茸と水菜は、別の出口を探したほうがよさそうだ。
出口は、敷居が低いほうがいい
料理の工夫、と言うと構えてしまうけれど、味噌汁はその中でもいちばん敷居が低い出口だと思う。レシピを調べる必要も、特別な材料をそろえる必要もない。どうせ作るその鍋に、やばいやつを放り込むだけ。
前回、入口と出口の両輪の話をした。その出口の主力は、振り返ってみれば最初からこの味噌汁だった。派手なあまりものレシピじゃなく、たまに僕が作る地味な一杯が、思っていた以上に食材を拾ってくれている。
ちなみに前回、期限切れかけの生クリームをどうにか腹に入れる、という話も書いた。あれの続きで「コーヒーやココアに入れてみる」と宣言していたのだが、うちの生クリームは気づけば賞味期限をだいぶ過ぎていて、今回は救済ならず、静かに見送った。次に買って余らせたら、この味噌汁と同じ「やばい順で拾う」精神で、ちゃんと出口に流してみようと思う。
そして、たまの当番の日にやばい順で具を選べるのは、そもそも冷蔵庫の中で「何がいちばん古いか」がなんとなく見えているからでもある。ここが見えなくなった瞬間、救済窓口は機能しなくなる。だから入口で在庫が見えていることは、この出口ともちゃんと繋がっている。
このブログでは、食材を使い切るための試行錯誤を、うまくいったこともいかなかったことも含めて記録しています。前回の「入口と出口の両輪」の話と合わせて読むと、この味噌汁の位置づけが伝わるかもしれません。